大学の英語は1・2年で8単位、4教科を勉強しなければならない。このなかで、忘れられないのが、1年生のときに勉強した、基礎の英語購読2単位科目である。まさに、文学作品を読むことになった。
その題名が「ジキル博士とハイド氏」である。わたしは、中学生のときに新潮文庫でこの訳本を読んでいたので、筋書だけは知っていた。ああ、あれかぁという感覚である。
ところが、原文で大学の授業を受けてみると、これが極めてやっかいなのである。悪友たちも、同感であったようである。
A「おい、英語読んだか?」
B「ああ。しかし、わかりにくい」
A「うん、俺もそう思う」
B「先生の講義要綱には、素直な英文で分かりやすい、と書いてあるだろう。だけど、訳してみても、全然わからん!!」
C「ああ、心理描写が多いし、状況がつかみにくいうえに、短い単語だけで独特の表現方法になってるもんな。あれは、文学部用だぜ」
とみんなで、ぶつぶつ言っていた。
やがて、授業も5・6月の中盤になってくると、われわれは、先生がこわいものだから、誤訳しないように、文庫本の「ジキル博士とハイド氏」の翻訳本を使って、授業でその訳どおりに発表した。
そうしたとき、先生がにわかに怒り出され、
「どこを、どう押したら、そんな訳が出てくるのかね、君!!」と
ひどくお叱りを受けた。
先生にすれば、わたしが、原文とかけ離れた訳を発表していることが、きわめて不愉快であったのであろう。
そのとき、先生にあやまりながら、
翻訳者は文学作品を翻訳するとき、そうとう程度、原文を無視することがあるのだ、
ということを思い知らされた。
打つ鐘も ちんぷんかんや 菩薩祭 (芭蕉)