norimoyoshiakiの日記

昭和40年の後半からの学生生活と、その後のことを日記にしています。ご意見をお待ちしています。

立夏 その2

   風流の初や奥の田植歌(芭蕉

 

 初夏になって、この俳句を思い出した。

どこで聞いたのであろうか。奥の細道のなかで、芭蕉たちが4月21日に白河を越えて、須賀川についたときに読んだものとされている。

 

 この須賀川というのは、現在の福島県須賀川市あたりであるという。

わたしは、大阪生まれの大阪育ちであるため、東北の地はまったく知らないでいた。

 

大学院生であったある日、後輩のハチヤ君と話していて。

ハ「のりもさん?この時期、芭蕉白河の関を越えたって話し、知ってます?」

私「うん?なんで」

 

ハ「授業でね。『ふうりゅうの・・・田植歌』って詠んだ芭蕉が、この時期に白河の関を越えて、たしか・・・須賀川(すががわ)とか言う場所で初めて、本格的に奥州に入ったんだってことが話題になったんですよ」

私「へぇぇ・・・、なんでまたそんなことに?」

 

ハ「いえね、今日の講義のあとの雑談で、百人一首のはなしになって、なぜか蝉丸の『これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関』っていうのが出てきたんですよ」

私「うん、それで?」

 

ハ「うちの師匠もそういう話し好きでしょ?」

私「そうなのか?」

 

ハ「ええ、それでね。『逢坂の関と白河の関』とはどうちがうんだろぅって話しになってね」

私「場所がちがう、字がちがう」

 

ハ「ははは・・・そういう冗談はさておき。先生がいうにはですね、ひとびとが会ったり別れたりしながら行き交う関所が『逢坂の関』で、これからけわしい奥州へ入る、いわば一方通行的な関所が『白河の関』だって言うんですよ。まあ、象徴的な意味ではあるんでしょうがね」

 

 なるほど、『逢坂の関』は京と大坂を結ぶいわば昔からの都会の交通路であるけれど、『白河の関』は、奥州といういわば厳しい気候・風土の場所への入り口なんだろうなぁ・・・

 芭蕉が千里に灸をすえて出発したというのも分かるような気がした・・・

 

       みちのくの雨そそぎゐる桔梗かな(秋櫻子)