Yの家での話し。
Y「4月も今日でおしまいだなぁ・・・」
私「ああ、そうだよなぁ」
Y「『ゆく春や鳥啼き魚の目に泪』・・・かぁ」
私「え、何それ」
Y「芭蕉だよ。知らないのか?」
私「いや、芭蕉は分かってるよ。『目に』泪じゃなくて、『目は』泪だよ」
Y「え、おんなじだろぅ?」
私「ちがうちがう。えらいちがいだよ」
Y「なんで?」
私「高校の古文でならわなかったか?この句は芭蕉が『奥の細道』の旅に出発するときの発句だぜ」
Y「そうだろ。それで?」
私「あのな、江戸時代とはいえ、芭蕉が旅する頃は奥州をひとまわりする旅っていうのは命がけだろ。まして、芭蕉は晩年の45歳をすぎた頃だというんだから、生きてふたたび見送りのひとたちと会えるかどうかわからないわけさ」
Y「うん」
私「ということは、もっと昔でいう、なみだなみだの『きぬぎぬの別れ』ってことだよな」
Y「なるほど」
私「ということはだよ。芭蕉が詠んだ句は、春がおわって鳥がないてます、川にはさかながゆっくりと泳いでますなんていうような、ほんわかした情景を歌ったわけじゃないだろう?」
Y「え、それが『は』ひとつで著わされるのかよ」
私「なんでもな、見送りに来た人を鳥や魚にたとえて、別れのときのそのひとたちのことを指すのに『魚は目に泪』っていうふうに表現したんじゃないかって言われてるんだよ」
Y「ということは?」
私「だからな。『行く春や』っていうのは、春の日に奥州へ旅立ちますっていう掛語であり、季語だろ。そして、多くの門人や友人が集って見送ってくれているという状況を重ねるために、『鳥啼き』と『魚は』って言って、主体を強調するのと、そのなかで、その主体の門人や友人が、目に泪をいっぱいにためて別れを惜しんでいるっていうことなんだろうな。『は』が、なみだをいっぱいためた主体をあらわす、いわば、主格表現助詞なんだろうぜ?」
Y「すげえ表現力だよなぁ。どんな風にして考えたんだろぅ」
私「わからん。芸術だからなぁ・・・・」
ゆく春や何か言わねば口さみし(鈴木真砂女)