夏休みに高校時代の友人U君から電話があった。
彼はわたしとはちがう大学法学部で勉強しており、
次回のゼミで「八幡製鉄政治献金事件」を発表することになったそうである。
そこで、わたしに、どう思うか意見をききたいという。
この判例は昭和30年代に、自民党が八幡製鉄から350万円の政治献金を受けたというのである。
今ならば、企業が政党に献金をするのは、法制度として認められている。
しかし、この時代、企業は国会議員などを選ぶという参政権がないのに、なぜ、献金なんぞ、することができるのかということで、大騒ぎとなったようである。
結局、献金は有効とされるが、その理由の基礎となるのが、会社という法人は、人間として擬人化されているのだから、人間が寺社への寄付や、慈善団体への献金などの寄付はできてあたりまえであるという筋道で、政治献金も同じとしてこれが認められた。
ひととおりの話しがU君と済んだ後。
U君が、
「やれやれ。日本人は擬人化がすきだよねぇ。昔から、授業で習うものでも、いろいろなところに擬人化ってあるよね」と。
そのとおりである。
たとえば、絵画では平安末期から鎌倉期に描かれたという『鳥獣戯画』、
和歌でいえば、管原道真の『東風吹かば・・・春な忘れそ』と歌うことでの梅の擬人化
俳句では、芭蕉の『五月雨を集めて早し最上川』の川そのものであったり
演劇での『葛の葉(信太妻)』のきつねなど、あげればきりがない。
結局、擬人化というのは、聞いている側が身近に感じる、説明が簡単になる、印象を強めるといった利点があるのだろう。
U君が最後に、
「法も説明がしやすいということで、会社を擬人化するんだろうけど、かえって、むずかしくしていないのかなぁ?・・・」とつぶやいた。
「うぅぅん・・・ただね、法の擬人化は、合理性を追求するヨーロッパ型の『ひとは、どのように動き、どのようなはたらきをするか(機能)』というむずかしさで、にっぽんの擬人化は『ひとはどのように情をあらわすか(感情)』というむずかしさで、ふたつは少し意味がちがうと思うんだよなぁ・・・・」
夏草や君わけ行けば風薫る(子規)