小さいころ、わが家の近くに竹などの木材を売る店があった。
そのころ、こどもたちが「たけやがやけた」ということばを盛んに使ってあそんでいた。
わたしは、小学校にはいるまでは、焼けてないのになぜあんなことを言うんだろうとおもっていた。
近所のこどもたちと遊ぶようになって、このことばが前から読んでも後ろから読んでも同じになることから、こどもたちの間では、おもしろがって使っていたのである。
大学になってこういう文章構造を回文というと知った。
文化としての「ことばあそび」とされ、英語でも ‘’Madam, I’m Adam’‘などという有名な回文があるそうだ。
日本人はことばあそびが好きであるから、早くからあったのであろうが、
新潟の俳諧師が江戸時代の安政期には回文俳諧集を出していると、大学の先生がいっておられる(小瀬渺美:聖徳学園岐阜教育大学国語国文学第17集参考)。
大学時代、KやSとはなしていて、
K「さあなぁ、法学ではこうした回文のような前後ろ同じという構造のものは、ないだろうね。数字なら、14641のような回文らしき構造のものはあるがなぁ」
S「どちらかといえば、法学は回文というのはこういう物です、こういう形、規則にしたがって作られますというルールの側だね。回文そのものとは関係ない、もっというと、しゃれっけなし、というものだよね」
私「うぅン・・・・」
題目よどんどこどんとよく燃いた(細屋勘左衛門)
回文俳句です。