norimoyoshiakiの日記

昭和40年の後半からの学生生活と、その後のことを日記にしています。ご意見をお待ちしています。

成績発表

 われわれが大学に入学したころは、大学紛争が下火になっていた。

その前のことを3・4年生の先輩に聞くと、

 

「たいへんやったんやぞ。大学に来ても、正門前で機動隊と赤・青・白ヘルの学生が衝突して、学生の方は、石は投げるわ、火炎瓶は投げるわ、ほらそこにある石畳の石も、はがれてるだろ。あれを学生がハンマーでたたき割って、投げるわ投げるわ。あぶなくって、大学に近寄れなかったんだからな」と

教えてくれたものである。

 

 われわれは、団塊世代のつぎのしらけ世代と呼ばれ、いわば責任感が希薄な高度経済成長の恩恵をしっかりと受けた軟弱なやつらと言われた。

 

そうしたなか、われわれが、2年生になったとき大学が授業料を上げるというので、反対闘争が起きた。

 

 なにがなにやら分からないまま、学校が封鎖され、この封鎖によって学年末定期試験を、大学内でおこなえなくなってしまった。

具体的にいうと、学生を大学に集めて、ペーパー試験をおこなうことができなくなったのである。

 

 そのため、試験はレポート試験に変更となった。

レポート試験というのは、大学から、レポート用紙と各科目の課題を記載した問題が各学生の家に郵送され、期日までに、レポートを自分で書いて返送するのである。

 

 わたしのような、なんちゃって法学部生からすると、しめた‼これで単位がもらえる、と小躍りした。

レポートは何を参照してもよいのだから、レポート作成には本やノートさえ集めることができれば、自分で何かしら解答できるからである。

 

 わたしの場合、科目数としては、13科目ほどあり、期日は1週間あまりであったが、何とか期日に間に合うようにレポートを作成して返送提出した。

 

 3月の春休み中、学年末試験の成績発表があり、大学に集まったサークル仲間が、ほぼ、みんな、にこにこしているのに、ひとりSだけ浮かない顔をしている。

 

 どうした?と聞いてみると、ある科目が不合格になったというのである。

Sはちょっと融通のきかない石頭ではあるが、頭は良い方である。

成績不良とは考えられなかった。

 

 返送期日に遅れたのかと尋ねると、

「いいや。実はK谷にレポートを見せてくれといわれて、レポート原稿を渡したら、K谷がそのまま書いたらしくて、△△教授が、一言一句、句読点まで同じレポートはおかしいだろう、というので二人の成績を不合格にしたんだ.....」と。

 

「おい、S。お前教授に聞きにいったのか?」

「ああ、納得いかないから、答案原文を持って教授控室へ行ってきた」

 

「先生はなんだって?」

「『ああ、あの答案は君か』って言って、レポートを二枚持ってきて、『みてごらん』って言うんだ」

 

「うん」

「見たらさ、K谷と俺の答案でさ。一言一句同じなんだよな。K谷のやつ、あれだけちょっと書き方を変えろって言っておいたのに・・・・」

 

 悪友仲間は絶句するしかなかった。

数百枚ある答案のなかから、同じ内容のものを見つけた教授も大したものである。

 

 けんか両成敗ならぬ処罰両成敗であるが・・・・

 

         福寿草悲喜の話しの中に咲く(阿部みどり女)