悪友たちと、秋の味覚である柿のはなしとなった。
A「なあ、柿といえば、あの有名な俳句があるだろぅ・・・・」
B「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺か?」
A「そうそう、その子規の俳句。あれさぁ、何が言いたいんだろう?」
B「そのままだろ、何もないさ」
A「そのまま?だったら、何も意味ないんじゃないのか?」
B「だって、子規の俳句は写生だもん。そのときのその状況を読むだけだよ。いわば、情景をことばで絵にしてるのさ。あの俳句は子規作品の最高傑作だともいわれてるぜ」
A「そうなのか?」
B「ああ。芭蕉だって『古池や蛙飛び込む水の音』って俳句が最高傑作だっていわれてるじゃないか。あの俳句に何か意味があると思うかい?」
A「だって、芭蕉の句は春の古池の閑静ななかで、その静けさを破るような水音によって、わびさびの境地を際立たせるものと言うように解釈されているじゃないか。その点で意味があるだろ?」
B「あのさぁ、それは俳句を鑑賞した人たちの解釈だろぅ?そんなの絶対じゃないだろうよ。
この句からみえるのは、かわずが、古池に飛び込んだという情景だけが、みんなの心に残るんだよ。
それをさびしいとか、静かだとか解釈するのは、それぞれのひとの感情の問題だろ。それが俳句じゃないのか?
だから、子規も芭蕉も俳句を作ったときは、何らかの感情はあったろうけど、
それは作者の感慨や感想で、俳句自体は、そこでの情景しか出てこないのさ。
ひとは、どう感じようがかまわないし、感じたままでいいんだよ」
A「ううぅゥンン・・・・・・」
からつぽの空のつくづく木守柿(太郎良昌子)