norimoyoshiakiの日記

昭和40年の後半からの学生生活と、その後のことを日記にしています。ご意見をお待ちしています。

客観という名の主観

6月のゼミ演習のとき、わが教授が

「客観という名の主観」ということを口にされた。

何の問題を解説しておられたのかは、忘れたが、

ある事実を確定するとき、これが事実かどうかは、さまざまな事物や証拠によって、

このときこの時間にこういうことがありましたと、みんなが納得するように決めるのであると。

 

 その決められたことが客観的事実として裁判などの争いの場での判断材料となる。

とすれば、この決まった事実は、だれがどうして決めたのかといえば、決めた人(たとえば裁判官など)がいて、そのひとの目やこころまたは判断によって決められたのである。

 

 その決められたことが、たとえば100人中99人までがそうだろうなと思えば客観になるのではないか。

 とすれば、客観というのはひとの目をとおした心の決定によって決まるものであって、ある意味、主観であり、完全絶対な客観というのは人間社会には存在せず、それは『神のみぞ知る』。

という話であった。

 

 それがどうしたといわれそうですが、みなさん、どう思われます?

 

 わが悪友たちは、『禅問答やん』といってました。

大学のとき、こんなことをべんきょうしてました。

 

       虹立ちて 雨にげて行く 広野かな(高浜虚子

              虚子は客観写生をめざしていたそうです。