ある日、悪友たちとはなしていて、
「初夏の良きものの代表として、『目に青葉、山ほととぎす、初ガツオ』っていうよな。あれ、三感は満足させるけど、触感を満足させるものがないのをどう思う?」とKが聞いてきた。
たしかに、目は視覚、山ほととぎすは聴覚、初ガツオは味覚である。嗅覚、触覚は入っていない。ここからが、新米法学部生である。へ理屈が飛び出す。
「ちょっと待て、なんで必ずすべての感覚を満たすような『ことわざ』をつくる、という命題が前提になる?不完全であっても、感覚の満足を示す事項を簡単にあらわす表現とかんがえればいいんだろう。」とH。
「うん、Hのいうことも一理あるが、そうすると、このことわざは、人間には三感しかないということを前提にしているということにならないか?」とMがいう。
「いや、それはちがう。たまたま、初夏5月には人間の五感中三感をみたす物がありますよ、という説明にすぎないんだよ」と、Sがのたまう。
聞いていて、まさにかれらの意見は客観的状況分析である。
わたしは心の中で、「つまらん議論やなぁ! それは論理学やん・・・。
それにあれは、ことわざではなく、
『目には青葉 山ほととぎす 初鰹』(山口素堂)との俳句です」、
とつぶやいていた。
素堂さんかわいそぅに。風流ではなくて、論理ネタにされてるやん。
風流の初(はじめ)や奥の田植うた (芭蕉)
芭蕉先生、悪友たちの議論は「田植うた」になるでしょうか?