norimoyoshiakiの日記

昭和40年の後半からの学生生活と、その後のことを日記にしています。ご意見をお待ちしています。

「母の日」の司法試験

 五月の第二日曜日は母の日である。ところが、法学部の法曹希望者、つまり裁判官・検事・弁護士になろうとする者にとっては、大事な大事な試験日であった。この日がその年度の、司法試験短答式試験日なのである。

 

 短答式試験というのは、司法試験の第一回試験であり、憲法民法・刑法という法律についての〇×問題、総数60問を3時間半で解くという試験である。昭和50年代当時、受験者総数はおよそ2万7千人から2万9千人、そのうちこの短答式試験に通るのは、わずか480人から500人程度であった。この試験に通った者のみが第二回試験としての論述式試験に臨むことができ、その合格者が面接試験を受けて、合格すれば(最終合格者はおよそ465人前後)晴れて司法修習生として、法曹人のたまごになれるのである。合格率およそ1パーセントの激戦である。

 

 この司法試験受験についての学生の態度は、およそ三種類に分かれる。司法試験など受けない学生。これは公務員や一般企業就職希望学生である。受験学生は法曹になりたい、なるつもりで受ける学生。最後に記念受験者である。わたしと、その仲間はまさに最後の種類の学生であった。

 

 法曹になる!といって受けている学生にしてみれば、五月蠅(うるさ)い,じゃまなやからである。しかし、われらにも言い分はある。大学入学のときは、やっぱり、わたしやわたしの悪友たちも弁護士になりたいと夢を持って法学部を選んだ。学部成績は確かに良くないが、勉強は普通にしているつもりである。

 

 いわば、司法試験は最後の仕上げ、仕上げと言って悪ければ、法学部を終えた者の最後の目標であり、夢なのである。たとえ、合格しなくても、最終学年の4年生になって、受験資格を獲得したならば、挑戦してみたいし、法学最高峰の試験を受験したという経験を味わいたいのである。

 

 試験当日、悪友ともども4人連れ立って、試験会場へ。興奮をおさえながらの短答式問題にのぞんだものである。4年生さいごの、母の日であった。

 まさに、「五月のハエ」ですんません。

 

  露と落ち露と消えにし わが身かな なにわのことは ゆめのまたゆめ

                                 (豊臣秀吉