norimoyoshiakiの日記

昭和40年の後半からの学生生活と、その後のことを日記にしています。ご意見をお待ちしています。

栗ごはん

またまた、悪友たちとのはなし。

B「さんまの他に、秋の味覚ってなにかなぁ」

A「そりゃまぁ、いろいろあるけど、栗かなぁ」

B「あ、俺、栗ごはん大好き。ほくほくしてたまんないよなぁ」

A「木の実は昔からごちそうだもんな」

B「そうだっけ?」

 

A「何いってんだよ。日本史なんかで習っただろう。原始社会の集落で、発掘調査をすると、原始人の食べたものの中に、貝、魚、木の実といったもののゴミが多くあるって」

B「そうか。だけど、栗だと、量が足りないんじゃないのか?」

 

A「そりゃそうさ。だから、木の実もいろいろなものがあって、『どんぐり』や『とちの実』なんかも食用にされていたって言われてるよ」

B「え、どんぐりって、あのどんぐり?」

A「ああ」

 

B「あんなの、小さい実だし、硬くて苦くて食べれないじゃないか」

A「そのままならな。だけど、よく煮てあくを採れば、食べれなくもないんだってさ」

 

B「とちの実って?」

A「知らないのか?栗によく似た実ではあるけど、これもあくが強くて強くて、そのままじゃあ食べられない実だよ。昔は、主食がわりになったんだってよ。いまじゃあ、『栃もち』とか『栃せんべい』なんかにして、売られているよ」

 

B「ああぁ。あれかぁ。だけどまあ、原始人じゃなくてよかった。今じゃあ、簡単に栗ご飯で食べられるんだから」

A「まてまて、栗ご飯にするのだって、包丁で皮をむかなきゃならないんだから。あれ、大変なんだぞ」

 

B「だって、わが家では『僕たべるひと、母つくるひと』だもん」

A「ばか!!そのCMフレーズ、最近では禁止だぞ。意識の高い女子に聞かれたらどうすんだ」

B「ごめん・・・・」

 

     よくぞ身を鎧ふものよと栗を剥く(堀前小木菟)

「ぼたもち」と「おはぎ」

大学のたまり場での悪友たちとのはなし。

「おい、『ぼたもち』と『おはぎ』はちがうのか?」

「いっしょだろ。春に食べるのが『ぼたもち』で秋に食べるのが『おはぎ』だろう。中身はおなじさ」

 

「なんで、呼び名がちがうの?」

「聞いたところでは、春は牡丹がさいているだろ、反対に秋は萩の花が季節花だということからきているそうだよ」

 

「それで中味がもち米なのには理由があるのか?」

「うん、もちは五穀豊穣の象徴だし、あずきは魔除けの意味があるんだってよ」

「それに、甘く味付けして、それが最高のごちそうだもんな」

 

「同じ材料で同じ食べ物なのに、違った名が付くっていうのがおもしろいよなぁ」

「そりゃ、牡丹に萩で対比になっていて、にっぽんらしいじゃないか」

 

「なあ、つぶあんこしあんのちがいは?」

「なんでも、春にとれたあずきは、皮がやわらかいからそのままのつぶあんを使うことができて、冬を越したあずきは、皮がかたいから、つぶして、こしあんとして使うことが多いらしいぜ。だから、春はつぶあん、秋はこしあんになってるんだってよ」

 

「なるほど、さしずめKとHはつぶあん、Sとのりもは こしあんかぁ」

私「おいそれ、頭のかたさをいってるのか、失礼な!!」

 

「うん、それもあるけど、こしあんは、手がかかって面倒じゃないか」

もう・・・・・(わたし)

 

     梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな(正岡子規

ショパン「別れの曲」

 夕方、近くの小学校から、ピアノ音楽が流れてくる。

「あ、別れの曲だ」

「え、のりも、わかるのか?」

 

「ああ、あれだけはわかるんだ」

「えぇぇ!!クラッシック音痴の のりもが、正確に曲名を言ってる。奇跡だ!!」

「うるせえ、俺だって知ってるクラッシック曲もあるさ」

 

「おい、なんで知ってんだよ?」

「実はさ、あれと同じ曲が小学校で退校時間にいつも流れて、そのとき、担任の先生が、作者と曲名を教えてくれたんだ」

 

「なるほど。『三つ子の魂百まで』だな。のりもでも、覚えるんだもんなぁ」

「妙な感心をするなよ。」

 

 クラッシック好きの悪友のウンチクが続く。

「この曲はな、練習曲作品10第3番ホ長調といわれるのが正式で、別れの曲っていうのは、1930年代のドイツ映画『別れの曲』でこの曲が使われたことからだってさ。一般にはTristesse(悲しみ)といわれて、秋によく演奏されるので有名なのさ」

へえええぇぇぇぇ・・・・・・

 

     ピアノ鳴るうかれ落葉の風に舞ふ(上村占魚)

さんま その2

 さんまという名がなぜついたのか、という話題に移った。

「さんまの『さ』というのは、狭いという漢字の読み、つまり、さ(狭)からきているそうだよ」

「なんで、狭いが関係するの?」

 

「ほら、さんまは細長いじゃないか。そこから『さまな(狭真魚)』って言われてて、これが細長いさかなを意味したんだってさ。

『さ』プラス『さかな』でさまなになったんだろうっていわれてるよ」

 

「さまな・・さまな・・さまな・・さんま、か。なるほどね」

 

「さんま漁は、江戸時代からはじまったといわれてて、そのとき、さんまが河岸に入荷するとお祭りさわぎだから、魚へんに祭りと書いて、さんまって読んだんだってさ」

「へーえ、今、そんな字、使わないだろう?」

 

「ああ、だから明治になって、あの夏目漱石が『吾輩は猫である』のなかで、さんまっていう字が確定してないから、音(おん)をもとにして『三馬』っていう字を当ててるよ」

 

「だけど、今は、さんまは、秋刀魚って書くのがふつうじゃないか?」

「あれは、秋によくとれる魚で、さっきも言ったように細い魚だから、刀の字をあてただけで、大正時代から使われだしたものさ」

 

「なんだぁ。俺はまた、落語の『目黒のさんま』のように、殿様がさんまを気に入ったから、武士の象徴たる刀と秋の魚とをあらわして、秋刀魚と書くのかと思った」

「・・・・・・」(そんなわけないだろう・・・・)

 

      人を刺す太刀の光の秋刀魚かな(鈴木真砂女

さんま

 教養英語あとの時間。同級生同士が秋の味覚について話している。

 

A「秋はさんまに止めをさすなぁ」

B「いやぁ、まったけだろう」(大阪ではまつたけを、まったけと呼んだ)

A「あれは、かおりだけじゃないか。酒飲みにはごちそうだろうけど」

B「いいや、まったけごはん、または、焼きまったけなら量もあるし十分食べ応えがあるぜ」

 

A「ちがう、ちがう、まったけごはんは、ごはんでおなかがいっぱいになるだけで、まったけでおなか一杯になるわけじゃないぜ。焼きまったけで腹いっぱいにしようと思ったらどれほどお金がかかるか」

C「そうだよな。さんまなら、1尾50円くらいで買えるもんな」

B「そうそう、まったけなんて、2000円出しても、ちょっとしか量がないもんな。あんなのぜいたく品だよ」

 

A「われわれが、小さいころは、親がよくまったけご飯なんか炊いてくれたがなぁ。この2・3年はまったけなんて、口に入れたこともないや」

 

B「ところでさ、お前たち、さんまの塩焼きは、はらわたまで食べる?」

A「食べるよ。あそこがおいしいんじゃないか。お前、食べないのか?」

B「うん、にがいし、なにか悪いものでもはいってるみたいでいやなんだよ」

 

A「あのさ、新聞で読んだんだけど、さんまが餌を食べた後、その消化はものすごく早くて、さんまの腸内には食べたえさの残りはほとんどないんだってさ。それに、さんまは新鮮であれば、内臓は、かえって、栄養豊富でビタミンの宝庫だって」

B「それでも、いやだなぁ。ほんとに悪いものが入っていないとは限らないだろぅ」

 

A「だめだ、こりゃ。お前は、さんまの開きでもを食べときな。あのあぶらの乗った新鮮な塩焼きさんまを味わえないとは、もったいない」

C「そうだよ。早くおとなになれよ」

 

子供は甘いものを好み、大人は苦いものを味わう、という。

ちょうどその境目にいるのが、大学1・2年生であろうか。

 

      菊匂ひ或いは秋刀魚輝けり(相生垣瓜人)

還暦

 われわれが、2年生のとき、顧問主事の教授が還暦を迎えられた。

われわれ2年生はサークルの執行部役員(といっても、いわば雑用係りであるが)となったため、先生のお宅を訪ねてサークルからささやかな記念品をお渡しすることになった。

さあ、何を贈るかということに・・・・

 

A「どうするの?何を贈る?」

B「うん・・・。ところで還暦って何?」

A「数え歳で60歳になったときのお祝いのことさ」

 

B「へぇぇ。だけどさ、なんで数え歳? なんで60歳?」

A「おまえさぁ。十干十二支って聞いたことあるだろ」

B「ああ、おばあちゃんが、正月になると暦をみてよく言ってるよ。ことしの干支はウシだとか」

A「それだよ。東洋の暦では、12年1回周期で人生を区切るらしいよ。それで、五まわりすると、一からにもどるんだってさ。それが60歳のくぎりになるというのさ。だから、60歳からもう一度人生がはじまるので、めでたいとしてお祝いをするというわけだろ」

 

B「ふうぅぅん。なるほど。じゃ、数え歳は?」

A「東洋の暦なんだから、むかしからの歳の数え方をするのは当然だろ?」

 

B「そうかぁ、前期試験の採点も、東洋の暦のように計算してくれたらいいのになぁ」

A「なんだよそれ」

B「だって、東洋風の年齢計算は生まれたばかりの赤ちゃんでも1歳にすぐなるじゃないか。おれもテストの試験を受けただけで点数もらえる」

A「ばか、1点じゃ赤点に変わりないだろう」

 

 贈り物のはなしは、どこへいったんでしょうか?

 

      還暦の近しや月夜葉が落つる(大野林火

刑事コロンボ

 昭和48年に「刑事コロンボ」がテレビで放映され始めた。

主演はピーターフォークである。さえないコートをいつも羽織っていて、これで事件が解決するのかという体でストーリーが進行する。

 

 おどろいたのは、事件物のドラマであるにもかかわらず、最初から、犯人が分かっているという筋立てである。

犯人が最後になって分かるという推理小説の手法になじんでいるわれわれにとっては衝撃であった。

 

B「おい、刑事コロンボはさ、最初から犯人がわかってるじゃないか?あれって、どういうことだろう?あんなことしたら、ドラマとしては最悪じゃないか」

A「いや、あれがアメリカ方式だろ。それに、刑事コロンボは、劇場用の作品だったんだよ」

 

B「うん?劇場用だと何かちがうのか?」

A「ああ、コロンボは初めは、脇役でさ。主演は犯人の方でその心理描写を劇場で展開するものだったらしいのさ。ところが、段々とコロンボに人気が出て、そのコロンボが犯人を追い詰めてゆくというストーリー展開が劇として演じられていたんだよ」

 

B「うん、うん、だけどそれじゃあ派手な展開にならないじゃないか」

A「そりゃそうだよ。だけど、お前のように単純なアクションのおもしろさを追求するんじゃなくてさ、劇場でしかできない心理描写で犯人を追い詰めていく展開が、劇としての価値を高めたんだよ。こどもの見るような演劇、たとえば、ピーターパンじゃないんだから」

 

B「くそぉ、おまえそれ、俺をこどもだって言ってんだろ?」

A「あれ、わかった?」

 

       月の人舞台化粧のそのままで(辻桃子)