norimoyoshiakiの日記

昭和40年の後半からの学生生活と、その後のことを日記にしています。ご意見をお待ちしています。

目に青葉、山ほととぎす、初ガツオ

 ある日、悪友たちとはなしていて、

「初夏の良きものの代表として、『目に青葉、山ほととぎす、初ガツオ』っていうよな。あれ、三感は満足させるけど、触感を満足させるものがないのをどう思う?」とKが聞いてきた。

 たしかに、目は視覚、山ほととぎすは聴覚、初ガツオは味覚である。嗅覚、触覚は入っていない。ここからが、新米法学部生である。へ理屈が飛び出す。

 

 「ちょっと待て、なんで必ずすべての感覚を満たすような『ことわざ』をつくる、という命題が前提になる?不完全であっても、感覚の満足を示す事項を簡単にあらわす表現とかんがえればいいんだろう。」とH。

「うん、Hのいうことも一理あるが、そうすると、このことわざは、人間には三感しかないということを前提にしているということにならないか?」とMがいう。

「いや、それはちがう。たまたま、初夏5月には人間の五感中三感をみたす物がありますよ、という説明にすぎないんだよ」と、Sがのたまう。

  

 聞いていて、まさにかれらの意見は客観的状況分析である。

 

 わたしは心の中で、「つまらん議論やなぁ! それは論理学やん・・・。

 それにあれは、ことわざではなく、

『目には青葉 山ほととぎす 初鰹』(山口素堂)との俳句です」、

とつぶやいていた。

素堂さんかわいそぅに。風流ではなくて、論理ネタにされてるやん。

 

   風流の初(はじめ)や奥の田植うた  (芭蕉

 芭蕉先生、悪友たちの議論は「田植うた」になるでしょうか?

体育実技

 1年生、2年生のとき、大学でも体育の授業がある。いわば、文武両道を求めるからであろう。まあ、実技はからだを動かすだけなので、それほど、いやなものではなかった。ただし、困ったのは、高校とはちがい、学校までの登校時間が相当長くかかるため、1時限目が体育のときは、まさに地獄となる。

 

 朝のラッシュ時に電車に乗り、『ふうふう』いいながら大学に着く。これで相当の体力消耗があるのに、わが大学の体操着への着替え場所は、体育館であるため、大学構内のいちばん奥までゆかなければならない。この必要時間がおよそ、駅から15分。ダッシュしたとしても、まず、10分はかかる。ここでも、駅の通学生ラッシュと出くわそうものなら、15分はかくごしなければならない。朝の時間、この通学時間のための早起きは、相当の努力を要した。

 

 やっとたどり着いて、着替えを済ませると、授業開始まであと5分。それで、間に合ったじゃないか、と思われるだろうか?

 なんの、ここからも、問題が山積み。先生が出席をとるのが、実技場所たる運動場である。出席の点呼に遅れると、ここまでした努力がすべて水のアワ。あと、5分、またもや、運動場まで、ダッシュ! 

 

 大学には、運動場が3つある。ここで、集合運動場は、その日、その日によって、場所が異なる。近い運動場であれば、セーフ、5分以上かかる運動場であれば、アウトとなる。

 

 いつも、悪友と、もっとはやく電車に乗ればよかったぁ、とぐちっていた。ぎりぎりで運動場入り口に到着したとき、自分の名前が呼ばれて、走りながら、はい、はい、はい、と手を振りながら叫んでいた。

 

   白波の 寄そる浜辺に別れなば いともすべなみ 八度(やたび) 袖振る

                              (大舎人部祢麻呂)

コピー1枚30円

 サークルの法学研究会で、民法の『履行補助者による債務不履行』というテーマで発表・討論することになった。手持ちの民法の教科書で下調べをしたのであるが、詳しいことが分からない。簡単にいうと、物を売ったAが自分でその物を買主Bに引渡すのではなく、Aの従業員Cがその物の引渡しをするようにAから命ぜられていたのに、これを怠ったためにBに損害が生じたというとき、Aが責任を負うのかというような問題である。

図で書けばこうなる

 

A(売主) ━━━━━━━➡ B(買主)     

 |    売買                 

 |                                        

 C (履行補助者)              

                                    

わたしが教科書としていた、有斐閣双書という本は、履行補助者の故意過失は、債務者の故意過失と同一に取り扱われる、と書かれているにすぎない。                                             

               

 

 さて、わたしといえば、履行補助者がこの場合なぜ問題になるのかが、まるで分からないという馬鹿者である。Aが自分で履行しようが、Cを使おうが、実際にBに物が引渡されなかったら、Aの責任であるのはあたりまえやん。なにを、Cの故意過失なんか問題になんねん。さっぱりわからん。というのが感想であった。

 

 詳しいことは省くが、この点を解決してくれたのが、図書館で見た我妻榮『履行補助者の過失』(「民法研究」(岩波書店)所収)という論文であった。

 ああ、そうかぁ、と感心したが、研究会の発表まで、もう15分しか残っていない。この論文をノートする時間がない。

 

 あわてて、大学正門前に唯一あるコピー店まで、この本を借りて持ってゆき、コピーをした。

 

 この枚数が約10枚である。当時、コピーは青焼きコピーが主流で、現在当たり前のようになっている黒字印刷のコピーはとても高価であった。1枚30円(青焼きのおよそ10倍である)。財布から300円を探し出して、コピーをとった思い出がある。

 明日、昼めし抜きやなぁ・・・・・。

         空腹(すきばら)に雷ひびく 夏野かな  (一茶)

                              

神戸三宮デート

 われわれの大学では、5月になると、学舎前のひろばが、さつきで満開となる。はなやかな、ひろばに、授業前やあと、あるいは食後によくサークル仲間が集まって、わいわいがやがやと話をしていた。

 

 風の心地よい休日明けのある日、1年生男女5・6名で話しをしていると、K嬢が、

「五木くん、きのう三ノ宮にいったでしょ、あれは彼女?」とにやにやしながら聞いてきた。

五木は、「え、いや、おれじゃないぞ、人違いや」といいながら、かおを真っ赤にしている。

 K嬢が三ノ宮のデパートで買い物をしているときに、五木がかわいい女の子と談笑して歩いているのを、見たらしい。

 

 みんなが、「えええ~。相手はだれや、だれや!!」との大合唱。

「おい、五木、証拠はあがってる、白状しろ」「そういやあ、おまえ、今日の英語、予習してなかったやろ。ということは、昨日は遊んでたということやな」と追及が始まる。

 男も女も、わいわい、いいながら、五木をからかっていた。

 

 ひろば横の図書館から、先輩がでてきて、

「お~い、1年生。そろそろ、研究会をはじめるぞ。○○教室に集合」と声をかける。

 

 この号令をあいずに、蜘蛛の子をちらすようにして、あちこちに置いてあるカバンや本を取りにゆくのであった。

     ほととぎす なくなくとぶぞ いそがはし (芭蕉

「母の日」の司法試験

 五月の第二日曜日は母の日である。ところが、法学部の法曹希望者、つまり裁判官・検事・弁護士になろうとする者にとっては、大事な大事な試験日であった。この日がその年度の、司法試験短答式試験日なのである。

 

 短答式試験というのは、司法試験の第一回試験であり、憲法民法・刑法という法律についての〇×問題、総数60問を3時間半で解くという試験である。昭和50年代当時、受験者総数はおよそ2万7千人から2万9千人、そのうちこの短答式試験に通るのは、わずか480人から500人程度であった。この試験に通った者のみが第二回試験としての論述式試験に臨むことができ、その合格者が面接試験を受けて、合格すれば(最終合格者はおよそ465人前後)晴れて司法修習生として、法曹人のたまごになれるのである。合格率およそ1パーセントの激戦である。

 

 この司法試験受験についての学生の態度は、およそ三種類に分かれる。司法試験など受けない学生。これは公務員や一般企業就職希望学生である。受験学生は法曹になりたい、なるつもりで受ける学生。最後に記念受験者である。わたしと、その仲間はまさに最後の種類の学生であった。

 

 法曹になる!といって受けている学生にしてみれば、五月蠅(うるさ)い,じゃまなやからである。しかし、われらにも言い分はある。大学入学のときは、やっぱり、わたしやわたしの悪友たちも弁護士になりたいと夢を持って法学部を選んだ。学部成績は確かに良くないが、勉強は普通にしているつもりである。

 

 いわば、司法試験は最後の仕上げ、仕上げと言って悪ければ、法学部を終えた者の最後の目標であり、夢なのである。たとえ、合格しなくても、最終学年の4年生になって、受験資格を獲得したならば、挑戦してみたいし、法学最高峰の試験を受験したという経験を味わいたいのである。

 

 試験当日、悪友ともども4人連れ立って、試験会場へ。興奮をおさえながらの短答式問題にのぞんだものである。4年生さいごの、母の日であった。

 まさに、「五月のハエ」ですんません。

 

  露と落ち露と消えにし わが身かな なにわのことは ゆめのまたゆめ

                                 (豊臣秀吉

五月病?

 われわれの大学時代にも、五月病という「やまい」があった。4月の新年度のいそがしさから解放され、ひと息つくのが4月末からはじまるゴールデンウィークである。

 ゴールデンウィークが終わると、大学へ出てこない学生が多くなるのである。これは、一種の学生の大学への慣れや飽き、あるいは、なんとなく感じるつかれ感が、いわば、登校拒否をうみだす。これを五月病というのはご存じの方々は多いであろう。

 

 大学の大講義室での授業が4月開始時には、満杯で立ち見の学生受講者が出ることもあったのが、5月の中旬になると、同じ授業が、十数人のパラパラとした人数しか集まらないということすら起こるのである。

しかし、大学構内は、わりあい学生であふれかえっているのである。

 

 こうしたなかで、校内の中庭には、おおくのグループが集まり雑談をしている。そのあるグループのひとつに、

 

 ひさしぶりに登校してきた学生が、

「おーい、マージャンに付き合う奴おらんか?」と聞いてくる。

グループのなかの数人が手をあげて、マージャンをすることになったようだ。

 

 マージャンに加わらず、残った学生が、

「おいおい、つぎの○○先生の講義どうするんだよ」と、マージャン参加者に声をかける。

 かれらいわく、

「きょう、俺、五月病!!」

おい、それは五月病とはいわんぞ(天の声)。

 

  葉桜や 白粉つけて さびしけれ (山口青邨

いすず ベレット

 大学生のとき、5月の連休というのは、体を持てあますことが多かった。大学の友人はこの間に帰省したり、関西在住の者は自分たちの高校時代などの友人と会っていることで、大学の講義が始まるまでは、いわば遊び相手がいないことになる。

 

 わたしも、ひさしぶりに、中学の同級生Yのところに話しに出かけた。この友人は小中学校が同じで、わたしとしては気が楽な、こころが通じる友人のひとりであった。

 彼の家の部屋で話していると、表でぶぉぉぉぉ....ドッドッドッドと低いが力強いエンジン音がする。

 しばらくして、門前で「Y、いるかぁ?」と呼ぶ声がする。Yの部屋は玄関のすぐ横にあるために、窓を開けて見てみると、これもまた、中学の同級生で、すでに社会人の伊沢君である。

 

「おう、ノリモもいるのか。ちょっと、出て来いよ。ドライブしようぜ」と誘ってくる。

二人で表に出てみると、その当時、評判の車、いすずベレット1800CCがエンジン音を響かせていた。

 

 「おおぉ、すごい。伊沢、買ったのか?」

「ああ、ローンだけどな。機械物はある程度動かしていないと、かえって傷むから。つきあえよ」という。

われわれは、いそいそと、この誘いに乗ったのである。

 

 楽しい1日であった。あちこち、車で連れていってもらい、ドライブインに入って、お茶を飲んだり、馬鹿話をしながら過ごした。

 

 帰り道で事件が起こった。道路が長い坂道で、スピードが出すぎたのである。しまった、と思ったときはもう遅く、後ろから、白バイが・・・・・。

 彼には、免許の減点と罰金の切符が切られていた。

 

 このあと、伊沢の消沈の様子はただならないものであった。Yとわたしは、

「ごめん。われわれも、スピードに気がつけばよかったのに・・・」

 彼はやさしい。

「いいよ。お前らのせいじゃない、気にすんな」といって、われわれを送り届けて、帰っていった。まさに、

 

  貧居士が梅を妻とは瘦我慢  (尾崎紅葉

 

 男が梅を妻として優雅な生活をするという故事があるそうで、そうした風雅なひとではないが、梅を妻として生活しているというのはやせがまんにすぎないという意味だそうな。

 伊沢君、貧居士などと称してごめん。だけど、このときの君は、やせがまんだろうが何だろうが、ダンディでかっこよかったよ。